2026年10月20日、探査機MMXが宇宙へ出発しました。目指すのは、火星そのものではなく、火星のまわりを回る小さな月「フォボス」。遠い天体から砂を持ち帰り、太陽系の歴史を読み解く旅です。小さな試料に、なぜこれほど大きな期待が寄せられているのでしょう。
打ち上げ成功は、約5年の旅の最初の扉
JAXAの発表によると、H3ロケット10号機は10月20日午前4時41分03秒、日本の種子島宇宙センターから打ち上げられました。約1時間11分13秒後、MMXの正常な分離と軌道への投入が確認されています。ここまでが、打ち上げ直後に確認された成果です。フォボスへの着陸や試料の回収まで成功した、という意味ではありません。出典:JAXA・打ち上げ結果
MMXはMartian Moons eXplorationの略で、日本語では火星衛星探査計画と呼ばれます。「衛星」は、ある天体のまわりを回る天体のこと。地球には月があり、火星にはフォボスとダイモスがあります。人工衛星と区別するときは「自然衛星」といいます。名前が難しく見えても、今回の目的地は「火星の月」と考えればよいのです。
サンプルリターンとは、現地で採取した試料を地球へ持ち帰る探査です。sampleは試料、returnは帰還。MMXはフォボスから10g以上の試料を持ち帰ることを目指します。公式計画では2027年に火星圏へ到着し、観測・採取を経て2030年に出発、2031年に地球へ戻る予定です。これからの年は目標であり、機体の状態や運用によって変わり得ます。出典:MMXミッション概要
フォボスは、火星と並べるとほとんど点
地球の赤道直径は約12,756km、火星は約6,792kmです。一方、フォボスは丸い球ではなく、長い方向から約27×22×18km。図の上段は、地球と火星の赤道直径、フォボスの長い方向と中間の方向を同じ縮尺で描いています。地球を直径26cmに縮めると、火星は約13.8cm、フォボスの長い方向は約0.55mmです。フォボスを見やすくするために上段で大きく描くと、目的地の大きさを誤解してしまいます。そこで、下段にフォボスだけを長さ400倍にした拡大図を分けました。天体どうしの間隔は、実際の距離を表していません。
大きさの出典:NASA・地球と火星の赤道直径、NASA・Phobosの寸法。数値は公表値を丸めたもの。フォボスの凹凸や図の陰影は形を理解するための説明表現です。
火星の月は、どこから来たのか
地球の月が丸く見えるのに対して、フォボスはごつごつした不規則な形をしています。ただし、形が小惑星に似ているからといって、その生まれ方まで決まるわけではありません。いまの形や表面は、誕生後の衝突や風化でも変わります。見た目は手がかりですが、答えそのものではないのです。
代表的な考え方の一つが「捕獲説」です。もともと別の場所にあった小天体が、火星のまわりを回るようになったという考えです。もう一つが「巨大衝突説」。火星に別の天体が衝突し、飛び散った物質が集まって衛星になったという考えです。どちらの過程でも、実際に現在の軌道や性質を作れるかを検討する必要があります。出典:MMXの目指すサイエンス
もし遠方から来た天体なら、太陽系の中で物質が移動した証拠になります。衝突で生まれたなら、火星が成長していく途中の大事件を知る手がかりになります。どちらが正しいかで、「火星の月の説明」が変わるだけでなく、惑星ができるまでに何が起きたかという大きな物語も変わるのです。
どうして写真だけでは足りないのか
探査機は写真を撮るだけでなく、物質が光をどのように反射するかも測ります。光を波長ごとに分けて調べる方法を「分光」といいます。虹のように光を分け、その特徴から鉱物などを推定する方法です。しかし表面のちり、粒の大きさ、複数の物質の混ざり方によって、似た観測結果になることがあります。
実物が地球へ来れば、顕微鏡で粒の内部を調べ、元素や同位体を測り、別の装置で結果を確かめられます。同位体とは、同じ元素でありながら原子核の中の中性子の数が異なるものです。由来の違いを調べるための、物質に残された細かな模様のような手がかりになります。もちろん一つの測定だけで出身地を断定するのではなく、複数の証拠を組み合わせます。
地上なら、新しい測定装置ができた後にも研究できます。今の科学者が思いつかない問いを、将来の科学者が同じ試料に尋ねることもできます。サンプルリターンは、分析結果だけでなく、「次の世代が調べ直せる実物」を残す探査でもあります。出典:JAXA地球外物質研究グループ・MMX
フォボスに、火星のかけらがあるかもしれない
火星へ天体が衝突すると、地表の岩石の一部が宇宙へ飛び出すことがあります。その中の一部がフォボスに届き、もともとの物質に混じっている可能性があります。MMXが採るのはフォボスの試料ですが、その中から火星由来の粒が見つかれば、火星の過去を調べる別の窓が開きます。出典:フォボスのサンプルから分かること
ただし「混じっている可能性」と「必ず回収できる」は違います。また、見つかった粒が火星のどの場所の、いつの岩石なのかを決めるのも難しい問題です。地図上の採取地点が分かる火星表面の試料回収とは、得られる情報が異なります。MMXは火星の地面から直接石を採る計画ではありません。
10gを運ぶために、なぜ巨大なロケットが必要なのか
帰りの荷物が10gでも、往路にはカメラ、通信機、電源、エンジン、着陸装置、試料を守る容器などが必要です。それらを動かし、火星圏で減速し、地球へ帰るための推進薬も運びます。ロケットが持ち上げるのは10gの砂だけではなく、その砂を採りに行ける一式なのです。
遠い旅では、地球からの返事を待つ間にも探査機が動き続けます。そのため、状態を測り、自分で判断して安全に動く仕組みも必要になります。電力、熱、通信、姿勢の制御は、どれか一つがあればよいのではなく、すべてが協力して初めて観測を支えます。
この連載では、MMXを出発点として、ロケットの仕組み、宇宙の距離、燃料、スイングバイ、試料の科学へと進みます。目指すのは、探査機の名前を覚えることより、「なぜそう設計されたのか」を考えられるようになることです。