1. 身近な「スマホ画面・LED 電球」を逆算する
スマホ画面の鮮やかな表示、LED 電球、信号機、ホワイトイルミネーション。これらすべて 青色 LED が必要 (赤・緑は 1960 年代に発明済み、青だけが 30 年解けない難問だった)。これを 1993 年に世界で初めて実用化したのが、徳島の中小企業の会社員 中村修二。
LED 電球・スマホディスプレイ・大型 LED スクリーンが普及していなかった可能性。20 世紀末、白色 LED は不可能とされていたが、青色 LED + 蛍光体で白色が作れるようになったのが彼の功績。
2. 100 文字でわかる
中村修二 (1954〜)。愛媛県出身、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授。1993 年日亜化学工業の会社員時代に世界初の青色 LED 量産化、2014 年ノーベル物理学賞 (赤崎勇・天野浩と共同)。
3. 500 文字でわかる
1954 年愛媛県生まれ、徳島大学電気工学卒、1979 年に 徳島の中小企業 日亜化学工業 に入社。10 年間、会社の不採算部門で苦労、研究予算もない状態。1990 年、社長に直訴して「3 億円の予算と 1 年間」をもらい、青色 LED 開発に挑む。当時、青色 LED は「世界中の研究者が 30 年挑んで失敗していた」最難問。窒化ガリウム (GaN) という材料を使う方針で、1993 年世界初の実用的青色 LED の量産化に成功。翌 1994 年に LED 素子の特許を取得、日亜化学が独占販売で巨額収益。しかし会社からは報奨金 2 万円のみ。1999 年退社、米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授に。2001 年「特許の正当な対価」として日亜化学を提訴、2004 年東京地裁で 200 億円の判決 (後に和解、和解金額 8.4 億円)。「研究者の正当な報酬を求める」象徴的事件。2014 年、赤崎勇・天野浩と共にノーベル物理学賞。受賞理由「明るく省エネな白色光源を可能にした青色 LED の発明」。
4. もっと詳しく
中小企業の不採算部門で 10 年
1979 年、徳島大学卒で日亜化学に入社。配属は赤外 LED 部門 (採算性低)、10 年間製品が売れず、社内では「お荷物」扱いだった。「いつまでも赤字続きでは会社にいられない」と危機感、青色 LED 挑戦を決意。
社長への直訴 (1990)
1990 年、当時の社長 小川信雄に直接「青色 LED に挑戦したい、3 億円欲しい」と直訴。当時 35 歳、無謀な要求。社長は「やれ」と即決。米国フロリダ大学に 1 年留学、当時失敗続きだった青色 LED の研究を進めた。
青色 LED 量産化 (1993)
窒化ガリウム (GaN) という材料を使う方針 — 当時主流だった ZnSe (亜鉛セレン) を捨てて GaN に賭けたのが決定打。1993 年世界初の量産実用青色 LED 完成。1995 年高輝度青色 LED 完成、世界中が驚愕した。
「2 万円の発明」訴訟 (2001-04)
会社からの報奨金は 2 万円のみ、しかし日亜化学はその特許で巨額収益。2001 年、退社後に「特許の対価 200 億円」を求めて日亜化学を提訴。2004 年 1 月、東京地裁が 200 億円支払い命令 (世界の研究界に衝撃)。2005 年に和解 (8.4 億円)。日本の発明対価制度が大きく変わった。
ノーベル賞 (2014)
2014 年 10 月、赤崎勇 (名古屋大教授)、天野浩 (名古屋大教授)、中村修二 (UCSB 教授) の 3 名でノーベル物理学賞。受賞理由「明るく省エネな白色光源を可能にした青色 LED の発明」。中村は受賞時、米国籍取得済み。「日本のシステムが嫌で出た」という発言で物議。
5. 現代への影響
- スマホ画面: 全フルカラーディスプレイ
- LED 電球: 省エネ照明革命
- 信号機: 全国の LED 化
- 大型 LED スクリーン: 渋谷・タイムズスクエアの広告ボード
- 研究者の正当な報酬: 日本の発明対価制度を変えた
6. もっと知りたい人へ
- Wikipedia (日本語): 中村修二
- 自伝「考える力、やり抜く力 私の方法」(中村修二)
- ノーベル賞講演 (2014): ノーベル財団公式アーカイブ
7. 次の話
EP.45 では 山中伸弥 を扱います。iPS 細胞で「皮膚から心臓も脳も作れる」を実現、日本のノーベル医学賞研究者。
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